戦国の覇者徳川家を支えた

十四松平の城・寺・墓を訪ねて(終)

 

岡崎地方史研究会会員  永田 金一

 

 

1 はじめに

平成11年6月号より平成12年6月号まで4回に亘り紹介した本稿も、今回の5回目にて終ります。締めくくりと云う事で十四松平宗家の徳川氏について、その出自、松平郷までの足跡、松平八代の事蹟、遺跡としての寺と墓を紹介し、表として宗家松平9代(親氏より家康まで)の城と寺の墓、分家十四松平の城と菩提寺と墓の一覧表を記載します。

2 徳川の出自と初代親氏の松平郷迄の足跡と松平8代の事蹟

? 徳川の出自

 1300年代の後半に西三河に新興武士として松平氏が出現し、今までに記した様に一族は分立し、宗家と共に全国制覇に向かって努力し、宗家九代目家康が、慶長8年(1603)征夷大将軍になり、後、15代260年余の、全国支配者になったことにより、この家の出自に様々な脚色と作為が行われた。その最大のものは、徳川氏の祖先を源氏新田氏の末裔としたことである。
 松平氏の出身地、松平郷の伝承書『松平氏由緒記』では、土豪在原氏から松平氏になる話で、源氏とか新田氏の事は一言も出ない。一方、3代将軍の家光の時の寛永3年(1626)、旗本大久保彦左衛門が書いた『三河物語』では、源氏で新田氏の末裔が徳川氏となっている。これは徳川の全国支配を前提とする為、徳川中心の史観によって書かれた勝者の歴史であり、源氏でなければ征夷大将軍になれない事を主にして、系図の作為が行われた。
 時代は徳川の天下であり、将軍家の先祖を疑う事はタブーである為、この話が全国版で通用したのである。
 さて、出自はともかく松平宗家初代親氏の出は関東は、上野国新田郷(群馬県新田郡尾島町)で、遠祖は八幡太郎義家の子の義国の子、義重が新田を称したに始まり、弟、義康の家系が足利氏である。新田義重の四男が徳川氏の祖とされる義季で、得川または徳河を名乗り、その子、頼氏から世良田氏を称した。義季の兄、義兼から七代目が新田義貞である。
 宗家の新田義貞が、後醍醐天皇の綸旨を奉じて、鎌倉幕府討伐に功労があったものの、世は足利氏の時代となり貞和3年(1347)世良田氏九代の親氏は16歳の時、足利氏の圧迫に耐えず、一族と共に故郷を出て流浪の旅に出た。
 親氏の先祖義季開基の世良田長楽寺には、義季以下歴代の墓が苔むして現存し、3代将軍家光が日光から移した秀忠造営の古社も世良田東照宮として現存している。これが松平初代親氏が三河入りまでの徳川氏先祖の歴史である。義季から親氏の父、有親までの8代の名を以下に記す。

上州 世良田氏8代(新田義重系)

初代 義季 得河四郎・徳川三郎
2代 頼氏 世良田弥四郎
3代 教氏 世良田次郎
4代 宗時 世良田又次郎
5代 満義 世良田弥次郎
6代 政義  
7代 親季  
8代 有親  

 

? 松平初代親氏の三河入りから松平郷入郷までの足跡

 関東世良田の地を離れ、一族と共に諸国流浪の旅に出た親氏が三河入りし松平郷に入るまでの話は諸説有るが調査の限り、左記の如くの話がある。

a.三河入りまでに、信州の林郷にて足を止め、正月元旦に兎の吸物をよばれたと云う事で、徳川家はこの事を忘れずに、天下を手中にした後江戸城にての元旦の嘉儀として、兎の吸物を出すを例とする。

b.相模国、藤沢清浄光寺で、親季、有親、親氏が仏門に入ったと云う。

c.時宗の僧として有親(長阿弥)、親氏(徳阿弥)、三河大浜の称名寺に来り滞在する。有親は当寺に父、親季の分骨を納め、自分も没する。

d.親氏は後、西三河酒井郷(幡豆郡吉良町酒井)の酒井五郎左衛門の婿となり一子(後の酒井広親)を設けるが、妻が亡くなることにより、親氏は広親をここに残し旅に出て松平郷に向かう。
   地元には広親の弟の家系が今に続き、同家の畑の一隅に有親、五郎左衛門、広親の母、広親の墓があり、酒井家菩提寺誓覚寺もある。

e.右の話は刈谷の東境郷にも同じ様な話としてあり、この地には酒井氏の城跡、丸山城も残る。また、ここを出立する親氏を見送った児塚(ちごづか)も古街道に伝説として残り、酒井氏と広親の母を葬った泉正寺には墓も残る。

f.親氏は松平郷に入る前に、岡崎矢作の光明寺に立寄り、7日間の修行をした。同行の弟泰親と妹妙阿弥はここに残す。

g.松平郷に入った親氏に、在原館の主、信重が歌会の筆役を頼み、見事この役を果した後、親氏はこの事が縁で信重の館に逗留し、その人格を見込まれて信重の二女の婿となり、還俗して松平の姓を興し、松平太郎左衛門親氏と名乗り、松平氏の初代となる。

? 親氏より広忠までの松平八代の事蹟

松平8代の事蹟の概略を左記に記す。

初代  親氏 親氏は武芸に秀でて慈悲厚く、領民の信望もあり、領内も栄えた。隣接する林添村の薮田源吾を討ち、額田郡の中山7名を下し、勢力を伸す。郷中の小山に松平郷敷城を築き防備を固めた。神仏の信仰心も厚く、多くの社寺の創建もする。高月院・安全寺・妙昌寺(改建)・六所神社等である。
2代  泰親 兄、親氏に劣らぬ武勇の士。三河平野進出の足掛りとして、岩津城を攻略する。岩津に若一神社を創建する。
3代  信光 岩津城主となり、松平氏躍進の基礎作りをする。卓越した才能と無類の長寿、驚嘆すべき子福者で48名の子女あり。大給城、保久城を手中にし、松平郷への交通の要路を確保し、宗家松平郷松平家を安泰にする。続いて安祥城を攻略し、岡崎城(明大寺城)も入手する。子7人を入手した要地に分立、配置し領土を守る。神仏への信仰も深く、大松寺・信光明寺・妙心寺等の寺院等多く創建する。
4代  親忠 初代安祥城主。井田野合戦に勝利。伊賀八幡宮創建、大樹寺建立、第二次井田野合戦勝利。足助の鈴木重勝の女を妻とし鈴木一族と姻戚になり、岡崎の北も固め、大給、滝脇に分立家を出す。
5代  長親 2代安祥城主。父親忠と共に井田野合戦で活躍。大樹寺連判状にて松平一族の結束を図る。永正の乱にて岩津城を援護し、今川勢を退かせる。分立家四家を出し、安祥城の守りとする。
6代  信忠 3代安祥城主。弟の桜井松平信定と宗家相続を争い、分立一家を出す。
7代  清康 4代安祥城主。英才で武勇と慈悲に富み、3代信光と並び称される。山中城を攻め岡崎の西郷信貞を下し、岡崎城(明大寺城)に移る。足助城を攻略。吉田城の牧野氏、田原城の戸田氏を攻略し、配下とする。尾張の岩崎城・品野城攻略。伊保城・宇利城攻略。大樹寺に多宝塔建立。竜海院是之字寺を建立する。尾張守山城に出陣の折、家臣阿部弥七郎に誅殺され、25歳にて惜しまれて死す。生存なれは天下も手中にとも云う。
8代  広忠 岡崎城主。桜井松平信定に追われ岡崎城を出るが、今川家の援助を受け戻る。安祥城を織田信秀に攻略される。刈谷水野氏の女、於大を妻として家康が生れる。第一次小豆坂合戦は織田方優位となる。水野氏が織田方になり於大を離縁、於大は刈谷に戻る。三木松平の信孝と合戦、勝利する。家康を今川家への人質として出すが田原の戸田氏に奪われ、家康は織田氏の下に行く。第二次小豆坂合戦は今川方勝利。広忠、岡崎城中にて岩松八弥に刺殺され、24歳にて没。これより松平家並びに松平家家臣団の苦難の時代に入る。

? 松平家に関連する遺蹟と寺と墓(本稿関係分のみ)

称名寺  碧南市築山町二丁目 時宗東照山松寿院
暦応2年(1339)開基、元は天台宗。和田氏より寺領700石を賜るが、豊臣氏に没収される。徳川家との因縁は深く、親氏の事は前記のとおりである(本稿?のc参照)。松平6代信忠は当寺に隠居し没する。信忠息女東姫も当寺にて没する。8代広忠、当寺にて連歌会を催す。家康の幼名、竹千代の名は広忠の連歌からとる。3代将軍家光より32石を賜る。天保4年(1833)70石加増され百石余となる。昭和57年、境内に東照宮を建立する。
墓…親季、有親、親氏、信忠、東姫、信忠家臣、東姫家臣、と多くあり石塀にて廟となっている。
酒井郷

 幡豆郡吉良町
 初代親氏の関係地(本稿?のd参照)。
墓…酒井氏先祖の墓地に有親、親氏の妻と子、酒井広親の墓あり(酒井氏子孫治男氏の宅も郷中にあり)。 

東境郷

刈谷市東境町
初代親氏の関係地(本稿?のe参照)。

墓…親氏の妻であり、子、酒井広親の母であるおこんの墓が郷内の泉正寺にあり。
児塚…「ちごつか」と云い郷内の鎌倉街道に塚と石碑あり。
松平郷に行く親氏と東境に残る母子との別れ塚である。

光明寺

岡崎市矢作町 時宗鏡立山帝守院
大同年中(806〜810)創建、雲珠形松平親氏位牌あり。慶長8年(1603)家康より8石を賜る。

大樹寺

岡崎市鴨田町 浄土宗成道山松安院
松平家・徳川家の菩提寺である。
 文明7年(1475)安祥城主松平宗家4代親忠が創建する。応仁元年(1467)尾張、三河の反松平の連合軍と松平一族の軍と合戦があり、この時の戦死者を葬った千人塚が9年を経た文明7年になっても鳴動し、悪病も流行するので、親忠は千人塚のほとりに堂を建て供養した。後、菩提寺として大樹寺を建てる。
 永禄3年(1560)桶狭間敗戦により家康は、大高城よりこの寺に来て先祖の墓前にて自害すべく覚悟のところ、この寺の13代住職登誉上人に「厭離穢土、欣求浄土(おんりえど、ごんぐじょうど)」と戦国乱世を住み良い浄土にするのがお前の役目と諭され、家康は翻意し、この8文字を終生座右の銘とし旗印にも使用した。
 この時に、家康を追う敵軍が寺に攻めて来て寺を囲むと、寺僧祖洞和尚が門のかんぬきで戦った。後に家康はこのかんぬきを「貫木神」と命名、今もこの寺にある。
この寺には松平8代、徳川歴代将軍の位牌あり。松平9代の墓あり、7代清康建立の多宝塔あり、寺領616石なり。

資料1 宗家松平9代の城と墓のある寺

付 生没年・年齢・戒名(初代親氏と2代泰親の生没年は諸説あり)

名前 墓のある寺 生 年 没 年 年齢 戒 名
初代 親氏 松平館
松平城
大樹寺 高月院 
信光明寺 妙昌寺
称名寺
元弘2
(1332)
応永元
(1394)
63 芳樹院殿 
俊山徳翁 
大禅定門
2代 泰親 岩津城 大樹寺 高月院
信光明寺 円福寺
正平18
(1363)
永亨9
(1437)
75 良祥院殿 
秀岸祐金 
居士
3代 信光 岩津城 大樹寺 信光明寺
万松寺 円福寺
応永11
(1404)
長亨2
(1488)
85 崇岳院殿 
月堂信光 
居士
4代 親忠 安祥城 大樹寺 永亨3
(1431)
文亀元
(1501)
71 松安院殿 
大胤西忠
大居士
5代 長親 安祥城 大樹寺 文明5
(1473)
天文13
(1544)
71 棹舟院殿
一閑道閲
大禅定門
6代 信忠 安祥城 大樹寺
称名寺
文明18
(1486)
永禄4
(1531)
46 院殿 
泰孝道忠
大禅定門
7代 清康 岡崎城
安祥城
大樹寺 大林寺 
竜海院 随念寺
永正8
(1511)
天文4
(1535)
25 禅徳院殿 
年叟道甫
大居士
8代 広忠 岡崎城 大樹寺 大林寺
松応寺 広忠寺
法蔵寺
大永6
(1526)
天文18
(1549)
24

大樹寺殿
贈亜祖
応政道幹
大居士

9代 家康 岡崎城 大樹寺
日光東照宮
久能山東照宮
天文11
(1542)
元和2
(1616)
75 前大相国
一品徳蓮社
崇誉道和
大居士

 

 

資料2 十四松平の城と菩提寺と墓

(十四松平以外の松平ならびに十四松平よりの分立家は省略)

名 前 菩提樹
竹谷 竹谷城 蒲形陣屋 全保寺 天桂院 西の岳 天桂院
形原 形原城 光忠寺 光忠寺
岡崎 大草城 明大寺城 
山中城 岡崎城
正楽寺 大林寺 正楽寺 大林寺
五井 五井城 長泉寺 長泉寺
深溝 深溝城 本光寺 本光寺
能見 城山城 能見城 
西阿知和城
観音寺 観音寺
長沢 岩略寺城 長沢城 
登屋ケ根城
円福寺 洞泉寺 
法蔵寺
円福寺 法蔵寺 
元洞泉寺跡
大給 大給城 西尾城 細川城山城 松明院 宝珠院 
盛巌寺
松明院 徳林墓地 
宝珠院 御林山 
元乗政寺
滝脇 麻生城 滝脇城 
滝脇陣屋
阿弥陀寺 長松院 阿弥陀寺 長松院 松平助十郎御先祖墓所
10 福釜 福釜城 宝泉院 宝泉院
11 桜井 桜井城 菩提寺 桜井城跡 菩提寺
12 東条 青野城 東条城 来迎院 隣松寺 
貞祖院 性高来迎院
元法応寺跡 
隣松寺 性高院
13 藤井 藤井城 高野山浄眞院 高野山浄眞院
14 三木 三木城 合歓木城 
浅井西城

浄珠院 源空院 
観音寺

浄珠院 源空院 
観音寺

 

 

● 郷土館報102号〜170号研究発表目録 

(題名/執筆者/掲載号数の順に記載。旅行記など一部については割愛しました。)

新指定の文化財について/杉浦正明/102・108

大字山綱・大字本宿共有入会山の分割について/鈴木之夫/102

黒屋氏碑の解説/石原一市/102

興味深い回文/浜島覚成/102〜105

曼荼羅とは何か/川澄勝久/102・103

鶫巣町における碑について/小早川秀夫/103・104

徳川氏一門と三河出身大名について/山崎孝之/103

拓本しくじり話/仲彰一/103

尾張鋳物師水野平蔵近房/杉浦正明/103

道根往還について/粂力三/104・105・114

しゃぐっつあん/村瀬正則/104・106・108

天領赤坂代官/鈴木之夫/104〜106

衣文観音のあまざけ祭り/鈴木京次/104

古部の伝説/杉山次郎/105

愛知郡日進町岩崎城址天守台記念碑について/斉藤義昭/105

太平記と矢矧川の合戦/川澄勝久/105〜107

私の菅江真澄研究あれこれ/川澄勝久/108〜111

連尺町あれこれ/高瀬忠三/106・107

御伝馬御継所当番非番日/新家勝吉/108〜115・117・118・120・121・123

教導石/横田正吾/108

ふるさとの伝説と民話―白狐が藤川宿場町に大火を予告/鈴木之夫/109

村の語り部/兵藤郁造/109

大乱前後の三河の二人の武将/山崎孝之/110

道根往還は鍛冶屋まで/浅井敏/111

山中八幡宮と山中城主/鈴木京次/112

地名の歴史―旧秦梨子村の地名から/川澄勝久/112

山中学区付近の鎌倉街道私考/鈴木京次/113

真澄は白井氏であったか/川澄勝久/113〜121

明治新政府下の共有地の変遷/鈴木之夫/113

地名と人名―稲熊について/伊東宏/116

江戸詰め城藩主の宗旨/芦澤威三郎/116

真澄と五明と嵐児/横田正吾/117

【昭和まで山村に残った江戸時代】潰れ門・おじい・小屋皿・地神・遊び日・大畔・

跳び越えと馬渡し・おはぐろ・落穂集/山本潔

/114〜116・120・125〜127・129・130・132・134・136・142・156

設立時の岡崎病院患者心得規則/渡辺則雄/118・119

真澄墓碑の挽歌と長秋/伊奈繁弌/118

「東海道人物誌」に見る三河地方の能書家/都築嘉雄/119

八幡神宮寺/鈴木京次/120

はがき変遷史/渡辺則雄/121〜133

佐竹藩主と真澄の常冠/伊奈繁弌/121〜123

文化財にされた図額/村瀬正則/121

菅江真澄の絵/横田正吾/122

補遺 六曜を学ぶ/村瀬正則/122

(伝)安楽寺旧本尊阿弥陀五像について(勝利者と敗北者・仏に物を言わせたい)

/杉浦正明/123

志賀重昂と世尊寺建立の経緯/長坂一昭/124〜128

社稷*々−参河国社宮神年表−/村瀬正則/124〜128

一色大提灯の絵のなぞ/仲彰一/124

道根か?堂根か?/浅井敏/128

八ケ尻日記/村瀬正則/129

赤穂四十七義士からぬけた一人−故稲垣弘一会長の遺稿−/新家勝吉/129

岡崎城の昔と今/高瀬忠三/130

秦の徐福と秦氏の渡来伝承/伊東宏/131・132

書家内田不賢とその碑林/都築嘉雄/131

孝子訓/鈴木京次/131

松下鳩台と志賀重昂の血縁関係/長坂一昭/133

「籌(ちゅうぎ)」のはなし/河合正彦/133

箱柳白柳山聖徳寺縁起/粂力三/133

陰暦呼称の由来/鈴木京次/134

社宮神祭祀の展開/村瀬正則/134

謎の人菅江真澄の疑問/川澄勝久/134〜136・138〜140

志賀重昂の家系と存続/長坂一昭/135

三河地方の三大事件/都築嘉雄/135

県立岡崎支病院患者規則/渡辺則雄/135

山王遺跡/中根洋/136

伊奈繁弌さんの真澄研究と「ふた歌」/浅井敏/137

家康正室築山殿の実家関口家の子孫/岩月栄治/137

善光寺と中馬街道(善光寺参りの行程と産馬の地)/長坂一昭/137・138

神拝と神棚について/鈴木京次/138

江戸時代の弘法大師信仰−河国准四国八十八ケ所札所について−/遠山佳治/139

資料 農作業日記/長坂一昭/140〜146

稲前神社について/鈴木京次/140

菅江真澄遺蹟/鈴木太吉/140

諏訪大社と熱田神宮の謎/小川信次郎/141〜144

国分家文書 漢詩寄書軸について・額装漢詩について/仲彰一/141・146

原社宮神への接近/村瀬正則/142・145・146

夢枕に立つ浄瑠璃姫−三州横山の笹谷−/鈴木太吉/143

菅江真澄と碇ケ関/伊奈繁弌/144・145

婚礼についての謎/鈴木京次/145

炭営業組合規約御認可願他/渡辺則雄/146〜148

韓国済州島における秦の徐福伝承/伊東宏/147

真澄と東日流六郡誌/伊奈繁弌/147〜149

「年中行事惠美須草」紹介/村瀬正則/149〜153・155・157・158

忠勝様御武功其外聞書−後出中根家文書より−/新家勝吉/150〜155・157

矢作光明寺徳川天満宮祭事について/杉浦正明/151

浦島・竜宮伝説のルーツ的意味―蓬莱(常世)信仰に関連して/伊東宏/153〜155

菅江真済(澄)翁影発見/伊奈繁弌/157・158

「於大の方」の後釜「真喜の方」竜海院に眠る/浅井敏/158

天白尋論/村瀬正則/159〜162

勧懲一階・軍證勧懲一階−中根家文書から−/新家勝吉/159

真宗惣道場から寺院への苦難の道すじ/杉浦正明/160〜163

汲古会の活動/新家勝吉/160・161・163〜165

菅生祭奉納花火と観光夏まつり花火大会/長坂一昭/162

天白神観のまとめ/村瀬正則/163・165

岡崎納札会建立の納札塚/杉浦正明/164

十四松平の城・寺・墓を訪ねて/永田金一/165・166・168〜170

瀧山寺出土古瓦について/杉浦正明/166

「於大の方」の後釜「真喜の方」に子があった!/浅井敏/166

絵馬の流れ/村瀬正則/168・169

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