日光道

二十一次

(宿駅一覧)

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この日光街道は、元和三年(1617)、徳川家康の廟所が久能山から日光に移されてから、奥州道を利用して整備された。このため、この道中は将軍の東照宮社参で使用されたため、その折にはさまざまな規制が街道の宿町村に触れ出された。

享保十三年(1728)、将軍吉宗の社参に際し、幕府が大目付・勘定奉行・作事奉行・普請奉行・目付六人の連署による触書を街道各宿駅、沿道の村々に通達した覚には、

「申三月覚 当四月、御成の節、道中宿々ならびに宿間の百姓、家居の男女共、寛文三卯(1663)の通り、女並びに子供は軒下に指し置き、男は後ろの方に罷りあり候ように心得られるべく候。もっとも出家・聲女座頭は指し出し申し間敷く候。盛砂の儀、宿々そのほか野間共盛砂仕り、並びに宿々には手桶を並べ指し置き候よう申しつけられるべく候。但し、手桶、盛砂、十間に一つ程指し置くべく候。御成、還御の筋は、途中にて若し夜に入り候儀もこれあり候はば、宿々村々御道通り家々の前にあり合せ候提灯または行灯にても指し出し候ように申しつけられるべく候」

とあり、天保十四年(1843)の社参の覚書には、

「一、便所は凡そ十町に一ケ所の割りで葭簾囲で作っておけ。一、畑の畝は見通しのよいように直しておくこと。一、通行以前に犬を出さないようにし、大きな穴を掘り、その中に入れて置くこと。一、二階は閉め切りにして目張りしておくこと。一、村境杭、道標等は新しく立直すように」

などと細かく指示していた。

 

千住宿(せんじゅしゅく) 日本橋より二里八町(約4.7H)

奥州街道・日光街道第一宿。本陣一、脇本陣一、旅籠五十五軒、遊女屋三十六軒、人口九千五百余人。日光街道では宇都宮とここに貫目改所が有った。

千住という名の由来は、嘉暦二年(1327)、荒川より出土した千手観音像からとも、足利義政の妻千壽姫の生地だったことからとも云われ、諸説有って定かでは無い。文禄三年(1594)、伊奈忠次を普請奉行に千住大橋が架けられてから、橋の周辺に人が集まり住むようになった。寛永二年(1625)、日光道中・奥州道中の初宿に定められ宿場町として発展する。また、文政十年(1827)刊の佐藤信淵が著した『経済要録』には、「江戸千住近在の民は、漉き返し紙を製すること毎年十万両に及ぶ」と記され、『新編武蔵風土記稿』にも、「村民戸ごと世にいう浅草紙といふものを漉きて生産の資とす。(中略)農隙に浅草紙といへる紙を漉きて江戸にひさげり」とあるように、ここ千住は漉き返し紙の産地としても知られている。

漉き返し紙というのは再生紙のことで、宮中で使用した書類を年末に焼却処分しているのを見た後水尾天皇が、「無駄なことを」と清涼殿の下の泉に浸して漉き直させたことに始まるという。これが江戸に伝わり、千住近郊の農家の副業となって生産され、浅草の紙問屋に卸され「浅草紙」として流通した。この「浅草紙」は、「還魂紙」、「並六」などと呼ばれ、その品質から「落とし紙」として利用され、「まぐそがみ」などとも呼ばれた。その製法は市中で使い古された紙クズを大釜で煮立て、それを石臼でドロドロにして紙酸き船に満たし、これに布袋葵の根を叩きつぶしてしぼり汁を加える。こうして出来た白濁水を簀桁ですくい上げて水を切り、板に貼る付けて乾燥させる。この方法を応用したのが、江戸名産の浅草海苔で、その発祥は寛永年間(1624〜43)頃とされている。

 

草加宿(そうかしゅく) 千住宿より二里八町(約4.7H)

奥州街道・日光街道第二宿。本陣一、脇本陣一、旅籠六十七軒、人口三千六百十余人。慶長元年(1596)に設けられた奥州街道の草加・越谷間は、当時八条・大相模を通る迂回路だったが、篠葉村の大川図書が中心となり、幕府の許可を得て新道開削を行ない、茅原を開き沼を埋め立てて草加・越谷をほぼ直線で結ぶ草加新道を築いた。この事が基となり、その後、図書は付近の住民とともに宿駅を設ける願いを出し、寛永七年(1630)、近隣九ヶ村で構成された新しい宿駅「草加宿」が誕生する。草加の名の由来は、茅(草)などを刈って開いたことによるとされている。

名物の「草加せんべい」は、街道の草加松原で茶店を出していた「おせん婆さん」が、ある時、客に出す団子が腐りやすいと嘆いたところ、それを聞いた客の武士が「団子を薄くのばし、それを天日で乾かし、火で焼いてみなさい」と教えた。それがいつしか宿場の名物となり、世間に広まったという俗説もある。「草加せんべい」は醤油せんべいで、醤油が一般に普及し始めたのは江戸時代末期の文化・文政年間(1804〜30)といわれるので、その頃に始まった可能性はあるが、明治八年(1875)発行の『武蔵野国郡村史』にもその記載がないことから、明治時代の末期に盛んになったと考えられている。

 

越谷宿(こしがやしゅく) 草加宿より一里二十八町(約7H)

奥州街道・日光街道第三宿。町並み十八町四十八間、本陣一、脇本陣四、旅籠五十二軒、人口四千六百余人。

宿の近く、元荒川の側に徳川秀忠が慶長九年(1604)に建てた越谷御殿が有った。明暦の大火で江戸城が焼失した時、この御殿の建物が江戸城復旧のため移築されたという。

 

粕壁宿(かすかべしゅく) 越谷宿より二里三十町(約11H)

奥州街道・日光街道第四宿。町並み十町二十五間、本陣一、脇本陣一、旅籠四十五軒、戸数七百七十余、人口三千七百余人。粕壁は春日部とも書いた。この宿は米の集積地として知られ、毎月四、九日に開かれる六斎市には多くの人々で賑わった。当初、岩槻藩領であったが、元和五年(1619)、岩槻城主高力忠房の浜松転封により幕府の直轄地となった。宿を出てしばらく行くと「関宿往還」(せきやど道)との追分がある。

「春日部」の語源は、「春日」と「部」からなり、「春日」は雄略天皇の皇女春日大姉の春日、「部」は皇族に仕えている人を御名代部と呼んだことから、その「部」をとった。つまり春日大姉に仕える人々という意味で「春日部」といい、そう呼ばれた人々がこの地に住んでいたという説が有る。また、「春日」は第二十七代安閑天皇の后春日山田皇女からきたという説もある。これとは別に、この辺りは低地で川も浅く、水が出た後に壁状の土砂がよく堆積したことから、川の「粕あたり」と云う意味で「糟ヶ辺」「粕壁」となったという説もある。江戸時代に宿名として「粕壁」が用いられ地名となった。昭和十九年に町村合併で「春日部」町となり現在に至っている。

 

杉戸宿(すぎとしゅく) 粕壁宿より一里二十一町(約6.2H)

奥州街道・日光街道第五宿。元和元年(1615)に近郊の家々を集めて作られた。本陣一、脇本陣二、旅籠四十六軒、戸数三百六十余、人口千六百六十余人。

杉戸という名の由来は、その昔、日本武尊の東征で真間の入江を渡る時、薩手島の南岬に上陸、そこには鬱蒼とした杉が繁り水門(みなと)を覆っていたことから、その地を「杉門」と名付けたという言い伝えがあり、ここに利根川の渡しが有った頃、「杉津」「杉渡」あるいは「杉門」と書かれ、「すぎと」と称されていた。それが杉の戸と書くようになったという。渡しのあった利根川は当時江戸湾(東京湾)に注いでいたが、幕府は江戸を洪水から守るため、まず元和七年(1621)、伊奈忠治に命じて瀬替えをし渡良瀬川に分流、さらに承応三年(1654)には伊奈忠克に命じて鬼怒川と合流させ、大平洋にそそぐ河川とした。こうして従来の利根川は廃川となったが、東部の水不足を補うため用水路となり、古利根川として現在に至っている。

 

御成街道追分(おなりかいどうおいわけ)

日光御成街道との合流点。御成街道は、元和三年(1617)、久能山にあった家康の廟所が日光に移された時、二代将軍秀忠が日光に向った時に使用した道で、江戸本郷追分から中山道と分れ、岩淵を経て荒川を渡り、川口、鳩ヶ谷、大門、岩槻の四宿を通って幸手宿に至り、奥州道を経て日光へ通う道。その後、日光への道は奥州街道を利用した日光街道が設けられるが、江戸期を通じて十三回、将軍の日光参詣に使用された。

 

幸手宿(さってしゅく) 杉戸宿より一里二十五町(約6.7H)

奥州街道・日光街道第六宿。本陣一、旅籠二十七軒、人口三千八百八十余人。日光街道、御成街道の合流する宿場で、筑波道の起点、さらには権現堂川などの開削により江戸への水運基地として廻船問屋などが立ち並ぶ物流の中継地として栄えた。

「さつて」の地名は、高野永福寺由来『龍燈山展燈記』に日本武尊が東征の折、薩手島に上陸したとあり、「薩手」と書かれているのが初見とされ、その後、下川辺庄の一地区名だったとされる。「幸手」という文字が使われるのは、慶長四年(1599)、伊奈備前守忠次が内国府間(うちこうま)の野原太郎右衛門へ宛てた書状の中に「幸手領幸手町」と書かれている事から、家康の関東入封頃には「幸手」の文字が使われていたと思われる。

 

栗橋宿(くりはししゅく) 幸手宿より二里三町(約8.2H)

奥州街道・日光街道第七宿。本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒、戸数四百余、人口千七百四十余人。慶長年間(1596〜1615)、栗橋村の池田鴨之助、並木五郎平が願い出て、今の上町に開宿し、次第に宿の体裁が整って、元和二年(1616)、正式に宿駅となり栗橋宿が誕生した。

宿の外れには「静御前」の墓が有る。

 

栗橋関所(くりはしせきしょ)

幕府は元和二年(1616)、関東十六津をみだりに渡ることを禁じた。そこで、ここ房川渡の渡船場に役人を派遣し取り締まるだけだったが、日光街道に関所が無いことから、寛永元年(1624)頃、ここに街道随一の関所を設け、東海道の箱根、中山道の碓氷とともに「出女、入り鉄砲」を厳しく取り締まることとなった。関所の番士には加藤・足立・宮田・島田の四家が代々勤め、屋敷を宿の西の八坂神社の近くの堤防の手前に構えていた。

 

房川渡(ふさかわのわたし)

利根川の渡し(渡船場)。『宿村大概帳』によると「常水川幅四十間程、船渡なり」とあり、「川越半里」といわれるほど長かったという。渡し賃は、「水丈八、九尺を常水として往来船で一人十文、茶船(十石積)は十二文、荷物は一駄につき二人分、なお水一尺増すごとに人馬、荷物とも五文増し」と寛政三年(1791)のお達しにあるという。

 

中田宿(なかたしゅく) 栗橋宿の利根川を挟んだ対岸

奥州街道・日光街道第八宿。『略記』に「地名の起こり、さだかならす、元和十年(1624)、日光道中の宿駅と定む」と有り、利根川を挟んだ対岸に有る宿場。江戸を立ったほとんどの旅人が、二日目には栗橋宿かここ中田宿に宿を取ったという。

 

古河宿(こがしゅく) 中田宿より一里二十町(約6H)

奥州街道・日光街道第九宿。本陣一、脇本陣一、旅籠三十一軒、戸数千百余、人口三千八百六十余人。この宿は、古河の城下町に作られた宿場で、町は城下町と宿場町からできている。

将軍の日光社参の時に宿泊所としたのは、家康の関東入部で小笠原秀政が入城して以来、代々譜代の大名が城主を勤めた古河城で、街道から城への入口には御茶屋を設け、そこで休息して城の御成門から入城した。

 

野木宿(のぎしゅく) 古河宿より二十五町二十間(約2.8H)

奥州街道・日光街道第十宿。本陣一、脇本陣一、旅籠二十五軒、戸数百二十余、人口五百二十余人。

現在、ここには宿場の面影は全く残されていない。

 

間々田宿(ままだしゅく) 野木宿より一里二十七町(約6.8H)

奥州街道・日光街道第十一宿。町並み九町二十間、本陣一、脇本陣一、旅籠五十軒、戸数百七十余、人口九百四十余人。元和四年(1618)に宿駅に指定された宿場で、日光を上として土手向町、上町、上中町、下町からなっていた。

 

小山宿(おやましゅく) 間々田宿より一里二十三町(約6.4H)

奥州街道・日光街道第十二宿。慶長十三年(1608)から元和五年(1619)までこの地を領した本多正純の居城小山城の城下町として発展した町で、町並み十二町十三間、本陣一、脇本陣二、旅籠七十五軒、戸数四百二十余、人口千三百九十余人とされる(『宿村大概帳』)。宿の外れから日光道中の脇往還壬生道が分れている。壬生道はここから北西に進み、飯塚・壬生宿を経て楡木に至り、中山道倉賀野から分れた日光例幣使街道と合流し、奈佐原・鹿沼・文挟・板橋の宿々を通って今市で再び日光道中と合流する。

日光街道には十二ケ所に将軍の休憩施設として御殿が設けられていて、ここ小山にもその一つ「小山御殿」が有った。この御殿は、元和八年(1622)、秀忠社参の際に「小山評定」の吉例に倣って設けられたとされ、東西百間余、南北五十間余、北は小山城と接し三方に堀が廻らされ、座間・広間・台所などで構成されていたという。しかし、御殿を使用した将軍は秀忠・家光家綱の三人、御止宿六回だけで、天和二年(1682)、幕府の財政難から廃止された。「小山評定」とは、慶長五年(1600)、会津の上杉征伐のため東進した家康とその連合軍だったが、大坂にいた石田三成が家康を挟撃しようと五大老の一人毛利輝元を総大将に反家康の軍を起こしたため、上杉軍との決戦目前で軍を止め、小山城で黒田長政等諸将と軍議したことをいう。

ここ小山は下野守藤原秀郷の子孫、四郎政光が都賀郡太田からこの地に移り居城を構え小山氏を称したことから始まる。政光は頼朝に従い信頼を受け、小山氏は鎌倉期には下野国の広い地域を得て隆盛を極め、関東の豪族となったが、南北朝期に十代小山義政が隣接する宇都宮氏と争い、関東管領足利氏満の軍勢に攻められ落城。以後、小山氏は凋落。その後、小山氏の支族結城泰朝が入って、小山氏を再興した。戦国期に入ると、関東に進出した小田原北条氏に従い、天正十八年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めにあたって、当主小山政種が小田原城に籠城したため所領は没収され、結城秀康に与えられた。家康が天下を取ると、当初は宇都宮藩領とされたが、慶長十三年(1608)、本多正純が三万三千石で小山城に入った。

 

新田宿(しんでんしゅく) 小山宿より一里十一町(約5H)

奥州街道・日光街道第十三宿。本陣一、脇本陣一、旅籠十一軒、戸数五十余、人口二百四十余人。

 

小金井宿(こがねいしゅく) 新田宿より二十九町(約3H)

奥州街道・日光街道第十四宿。町並み六町四十二間、本陣一、脇本陣一、旅籠四十三軒、戸数百六十余。

元は金井村といい、現在地より西に有ったが、慶長九年(1604)、現在地に移住し村名に「小」をつけて「小金井村」と称するようになった。

 

石橋宿(いしばししゅく) 小金井宿より一里十八町(約5.9H)

奥州街道・日光街道第十五宿。町並み五町二十八間、本陣一、脇本陣一、旅籠三十軒、戸数七十余、人口四百十余人。

石橋の地名の起源については、「村名の起こりさだかならざれど、むかし池上明神前の水流に石橋あり、今は土橋なれど土人は石の橋と唱う。これ村名の起こるところなりぞ」と古書にあるという。

 

雀宮宿(すずめのみやしゅく) 石橋宿より一里二十三町(約6.4H)

奥州街道・日光街道第十六宿。町並み五町二十間、本陣一、脇本陣一。江戸時代初期、下横田村の街道沿いに集まった集落が分村し台新田村となり、寛永年間に宿駅となったといわれる。

 

宇都宮宿(うつのみやしゅく) 雀宮宿より二里一町(約8H)

奥州街道・日光街道第十七宿。本陣二、脇本陣一、旅籠四十二軒、荷物貫目改所、戸数千二百十余、人口六千三百五十余人。日光道中と奥州道中の分岐点で、日光参詣の将軍、藷侯の宿泊地であり、宇都宮藩の城下町として大いに栄えた。飯盛女も多く、嘉永年間には旅籠四十五軒となり、そのうち四十二軒が飯盛旅籠だったという。天保年間の飯盛女は百八十二人で、うち子供が三十九人と有る。この子供というのは、幼少の者のことで、子守り等で何年か過ごした後に「食売女」(飯盛女の幕府での公式の呼び名)になるもので、台所仕事をする「水仕」、給仕などをする「出居女」としても使われた。彼女らの親は貧困のために子供を身売りし、その身代金は三両から五両だったとされる。年齢や容貌などに応じ、もっと高額の者もあったという。こうした親たちの多くは、親自身が助かるためというより、子を餓えさせないための苦肉の策でもあった。

宇都宮の地名の由来は、下野国一の宮二荒山神社の「一の宮」から転訛したという説と、神社の別号「宇津宮神社」からでたという説がある。「宇都宮」が定着したのは、康平六年(1063)、藤原宗円が日光座主・宇都宮社務検校職に任ぜられ、亀ガ丘城(宇都宮城)に入り、宇都宮氏を名乗った事から始まる。

 

静桜(しずかさくら)

宇都宮宿と徳次郎宿の中宿として立場の有った野沢村にある桜の古木。古来より一枝に一重と八重の花をつける珍しい桜として知られる。名の由来は、奥州に落ちのびた義経の元へ向う途中、静御前がこの地を通った時に挿した桜の枝が根を張り、大木に育ったという伝説と、他の桜より遅く咲くことから静桜と名付けたという話が伝わる。

 

徳次郎宿(とくじろうしゅく) 宇都宮宿より二里十三町(約9.3H)

日光街道第十八宿。宿は三宿からなり、下徳次郎宿の町並み三町十二間、仮本陣一、仮脇本陣一、中徳次郎宿は二町五十一間、本陣一、脇本陣一、上徳次郎宿は三町十四間、本陣一、脇本陣二と有り、旅籠は三宿で七十二軒、問屋各宿に一所、総戸数百六十余、総人口六百五十余人となっていた。この徳次郎宿が三宿となった経緯は「元和三年(1617)、日光へ御鎮座あらせられし頃は、上徳次郎宿のみにて人馬を継立てしが、中下の二村も願ひにより享保十三年(1728)より上中下合宿と定められ、一月を三分して上十日を中徳次郎、中十日を上徳次郎、下十日を下徳次郎と割て人馬継立を役す。此割方、上中下の次第に配当せざるゆへは、三村合宿となりし時、中旬は往還の旅人も多くして継立混雑なるべければ、仕馴たる方にて扱ふべしとて上徳次郎を中旬と定められ、ついに永例となる」と『日光道中略記』に記されている。

徳次郎という名の由来は、日光に大きな勢力を持っていた一族に久次郎(くじら)氏が有り、その久次郎氏が奈良時代末期に日光二荒山神社から御神体を智賀都神社に勧請し、日光の久次郎に対し外久次郎(そとくじら)と称したことによるとされている。

 

大沢宿(おおさわしゅく) 徳次郎宿より二里十四町(約9.4H)

日光街道第十九宿。町並み四町四間、本陣一、脇本陣一、旅籠四十一軒、戸数四十余、人口二百七十余人。宿は日光街道整備後に作られた家並が宿駅となったもので、『日光道中略記』には「むかしは大沢と唱えしを、元和三年(1617)日光御鎮座の後、街道ひらけしより宿場の数に入りて大沢宿とあらためて唱う」とある。飯盛女を置くことを許されていて、茶屋・旅籠は大いに賑わったという。

宿の出口近くに、日光街道に設けられた将軍の御休所十二ケ所の一つ大沢御殿が有った。この御殿は寛永三年(1626)に大沢の稲荷山を切りくずして着工され、翌四年に完成した。しかし、ここを使用したのは家光と家綱だけで、以後の休息所は宿内にある竜蔵寺が使われ、御殿には留守居が居るだけであったという。

 

今市宿(いまいちしゅく) 大沢宿より二里(約8H)

日光街道第二十宿。町並み七町二十一間、本陣一、脇本陣一、旅籠二十一軒、戸数二百三十余、人口千百二十余人。宿内の道路には中央に水路が走り、壬生道・会津西街道の合流する交通の要所として市が立つなど大いに賑わいをみせていた。古書には「開発の年代は詳ならず。むかしは『今村』といひしを、宿駅となりて近郷の民移住し、次第に賑わって市場となりしかば、今市宿と改め、毎月一と六の日を市の定日として諸品を売買す」とあるという。

 

鉢石宿(はちいししゅく) 今市宿より二里(約8H)

日光街道第二十一宿。町並み五町余、本陣二、旅籠十九軒、戸数二百二十余、人口九百八十余人。元和三年(1617)、日光に東照宮が鎮座したのに伴い、正保元年(1644)に日光道中の最終駅として設置され、以後日光参詣の人々で賑わった。

鉢石の由来は、この付近の地質が砂岩・粘板岩などの古生層からなり、その一部を石英斑岩・花崗岩が貫いて鉢を伏せたような形で地表に現れたものを「鉢石」と呼んだことによる。

 


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参考文献

『日光街道』「街道を歩く1」 大高利一郎編著 のんぶる社 1999年発行 254p

 

(最終更新日/2006.4.3)

 

 

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