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弘 前 城
東北の大藩に睨みをきかす壮大な城郭
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地図 ![]() |
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現存天守(重要文化財) |
歴 史 | 津軽はもともと南部氏の領地であったが、![]() 天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐の際、津軽為信はいち早く秀吉の陣中を訪れ、津軽支配の朱印状を受ける。 津軽為信は文禄3年(1594)大浦城から堀越城に本拠を移し、慶長5年(1600)の関ケ原の合戦では徳川家康の東軍に属して戦功をあげ、家康から津軽4万5千石を安堵され、まもなく2千石を加増された。 為信は堀越城が小規模で守備面にも不安があったため、3川に囲まれた天然の要地である高岡に新たな居城と城下町の建設に着手したが、慶長12年 ![]() 領内から人夫を総動員するとともに、江戸から大工を招き、石垣用に岩手山麓や付近の山々を切り崩すという大工事で、翌慶長16年(1611)には五層の天守などほぼ城郭の基礎が固まり、津軽信牧はこの新しい城に移った。これが現在の弘前城である。 津軽信牧の妻は徳川家康の養女であり、徳川幕府は南部(盛岡藩)、佐竹(秋田藩)、伊達(仙台藩)、上杉(米沢藩)という東北の大藩を牽制するため、津軽信牧に広大な城郭を築くことを認めたのであろう。 ![]() 寛永4年(1627)落雷によって五層の天守は焼失したが、江戸時代後期の文化2年(1805)蝦夷地警衛の労により7万石、同5年には10万石に加増されたため、文化7年(1810)九代藩主津軽寧親(やすちか)が辰己櫓を解体して三層の天守の再建に着手。翌文化8年(1811)に完成し、現在に至っている。 慶応4年(1868)戊辰戦争の際、十二代藩主津軽承昭(つぐあきら)がいち早く奥羽越列藩同盟を脱退して新政府軍に加わったことから、廃藩置県後も天守や櫓・城門など貴重な建造物が残ることとなった。 |
一口話 | 津軽為信は戦国時代、南部氏から独立して津軽藩を確立したが、南部氏との確執は後世まで続くことになる。 文政4年(1821)九代藩主津軽寧親は江戸から弘前へ帰る途中、急に予定路を変更した。これは盛岡南部藩の浪人相馬大作らが両藩境の檜山付近で寧親の行列を襲撃しようという計画を事前に探知したためである。相馬大作らは江戸で捕えられて処刑されたが、これが世にいう「相馬大作事件」である。 |
見どころ | ![]() 現在、弘前城は弘前公園となっているが、江戸時代初期に築かれた城郭をほぼ完全な姿でとどめているため国の史跡で、天守をはじめ9棟が国の重要文化財に指定されている。 弘前城には外濠、中濠、内濠、蓮池、西濠が残っているが、なかでも幅広く美しい西濠沿いには桜の木が植えられ、桜のトンネルとしてシーズンには ![]() 弘前城には三の丸追手門・三の丸東門・四の丸北門(亀甲門)・二の丸南内門・二の丸東内門の5つの城門が残り、いずれも国の重要文化財。 城門の周辺を土塁で築き、内外に枡形を設けた二層の櫓門で、一層目の屋根を特に高く配して全体を質素な素木造りとしており、古形式の門である。なかでも四の丸北門(亀甲門)は大光寺城から移築されたもので、規模も大きく形も異なり最古の形式をとどめている。 ![]() 弘前城内には南側の三の丸追手門から入城するのが一般的で、中濠に架かる杉の大橋を渡ると二の丸南内門。二の丸東内門の北側には移築復元された二の丸東門与力番所が建ち、その側のソメイヨシノは日本最古のものという。 二の丸跡から内濠に架かる下乗橋を渡るといよいよ本丸跡。外濠と中濠は土塁で防備を固めているが、本丸跡だけは石垣で囲まれている。下乗橋から ![]() 三層三階の天守は東北地方で唯一現存する貴重なもので、内濠に面する東・南両面には鉄扉窓をつけず矢狭間だけとし、一層と二層には中央の張り出しに切妻破風を設けるなど、江戸時代後期の天守としては古風な佇まいをみせている。天守内部は弘前城史料館となり、藩政時代の歴史資料が展示されている。 本丸跡には御宝蔵跡、御金蔵跡や未申櫓跡、戌亥櫓跡などが残り、本丸跡から眺める岩木山の山容は実に美しく、津軽富士と呼ばれる名に恥じない。 ![]() 築城当時の縄張りをほぼ完全な形でとどめている弘前城をくまなく見学するには2時間以上を要する。城内にはソメイヨシノや枝垂桜、八重桜など約2600本余りの桜が植えられ、桜の名所として全国的に有名。雪化粧した冬の弘前城の風情も捨てがたい。 |
周辺案内 | ![]() 長勝寺は津軽家の祖である大浦氏の菩提寺で、津軽藩二代藩主信枚が弘前城築城とともに現在地に移したもの。三門(国の重要文化財)をくぐると正面に本堂(国の重要文化財)が ![]() 最勝院にはみちのくでは珍しい華麗な五重塔(国の重要文化財)が建ち、津軽統一の過程で戦死した人々の供養塔として三代藩主津軽信義が着工、四代藩主信政によって完成したものという。 弘前城北門を出たところに国の重要文化 ![]() 追手門近くには青森銀行記念館が建っている。青森銀行の母体となった旧第五十九銀行本店として明治37年に建築された。左右対称で調和よく、防火のために様々な細かい工夫が凝らされた洋風建築で、国の重要文化財に指定されている。 |