弘 前 城

東北の大藩に睨みをきかす壮大な城郭

 所在地:青森県弘前市下白銀町
 別  称:高岡城
 築城年:慶長15年(1610)
 築城者:津軽為信
 形  式:平山城
 遺  構:天守、櫓、城門、番所
      石垣、土塁、堀、郭跡

 地図 
現存天守(重要文化財)
歴 史  津軽はもともと南部氏の領地であったが、外濠と三の丸追手門(重要文化財)元亀2年(1571)南部氏の被官だった大浦為信は南部家津軽郡代の南部高信を攻め滅ぼしたのを皮切りに、大浦城を本拠として18年余の歳月を要して津軽地方を制圧し、津軽姓を名乗った。
 天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐の際、津軽為信はいち早く秀吉の陣中を訪れ、津軽支配の朱印状を受ける。
 津軽為信は文禄3年(1594)大浦城から堀越城に本拠を移し、慶長5年(1600)の関ケ原の合戦では徳川家康の東軍に属して戦功をあげ、家康から津軽4万5千石を安堵され、まもなく2千石を加増された。
 為信は堀越城が小規模で守備面にも不安があったため、3川に囲まれた天然の要地である高岡に新たな居城と城下町の建設に着手したが、慶長12年内濠と本丸跡の石垣(1607)為信は没し、後を継いだ為信の三男津軽信牧(のぶひら)が慶長15年(1610)から本格的な築城を開始。
 領内から人夫を総動員するとともに、江戸から大工を招き、石垣用に岩手山麓や付近の山々を切り崩すという大工事で、翌慶長16年(1611)には五層の天守などほぼ城郭の基礎が固まり、津軽信牧はこの新しい城に移った。これが現在の弘前城である。
 津軽信牧の妻は徳川家康の養女であり、徳川幕府は南部(盛岡藩)、佐竹(秋田藩)、伊達(仙台藩)、上杉(米沢藩)という東北の大藩を牽制するため、津軽信牧に広大な城郭を築くことを認めたのであろう。二の丸丑寅櫓(重要文化財)
 寛永4年(1627)落雷によって五層の天守は焼失したが、江戸時代後期の文化2年(1805)蝦夷地警衛の労により7万石、同5年には10万石に加増されたため、文化7年(1810)九代藩主津軽寧親(やすちか)が辰己櫓を解体して三層の天守の再建に着手。翌文化8年(1811)に完成し、現在に至っている。
 慶応4年(1868)戊辰戦争の際、十二代藩主津軽承昭(つぐあきら)がいち早く奥羽越列藩同盟を脱退して新政府軍に加わったことから、廃藩置県後も天守や櫓・城門など貴重な建造物が残ることとなった。
一口話  津軽為信は戦国時代、南部氏から独立して津軽藩を確立したが、南部氏との確執は後世まで続くことになる。
 文政4年(1821)九代藩主津軽寧親は江戸から弘前へ帰る途中、急に予定路を変更した。これは盛岡南部藩の浪人相馬大作らが両藩境の檜山付近で寧親の行列を襲撃しようという計画を事前に探知したためである。相馬大作らは江戸で捕えられて処刑されたが、これが世にいう「相馬大作事件」である。
見どころ  外濠と土塁弘前城は本丸・二の丸・三の丸・四の丸・北の郭・西の郭の6郭からなり、天守のほか8つの櫓と12の城門が建ち、三重の濠と土塁をめぐらした壮大な城郭であった。
 現在、弘前城は弘前公園となっているが、江戸時代初期に築かれた城郭をほぼ完全な姿でとどめているため国の史跡で、天守をはじめ9棟が国の重要文化財に指定されている。
 弘前城には外濠、中濠、内濠、蓮池、西濠が残っているが、なかでも幅広く美しい西濠沿いには桜の木が植えられ、桜のトンネルとしてシーズンには二の丸南内門(重要文化財)多くの花見客で賑わう。
 弘前城には三の丸追手門・三の丸東門・四の丸北門(亀甲門)・二の丸南内門・二の丸東内門の5つの城門が残り、いずれも国の重要文化財。
 城門の周辺を土塁で築き、内外に枡形を設けた二層の櫓門で、一層目の屋根を特に高く配して全体を質素な素木造りとしており、古形式の門である。なかでも四の丸北門(亀甲門)は大光寺城から移築されたもので、規模も大きく形も異なり最古の形式をとどめている。
 二の丸東門与力番所(移築復元)二の丸跡に残る未申櫓・辰巳櫓・丑寅櫓(いずれも国の重要文化財)は三層の土蔵造りの櫓だが、窓の形など細部の造作に違いがみられる。
 弘前城内には南側の三の丸追手門から入城するのが一般的で、中濠に架かる杉の大橋を渡ると二の丸南内門。二の丸東内門の北側には移築復元された二の丸東門与力番所が建ち、その側のソメイヨシノは日本最古のものという。
 二の丸跡から内濠に架かる下乗橋を渡るといよいよ本丸跡。外濠と中濠は土塁で防備を固めているが、本丸跡だけは石垣で囲まれている。下乗橋から本丸跡から眺める岩木山眺める天守の姿は絵になる風景。
 三層三階の天守は東北地方で唯一現存する貴重なもので、内濠に面する東・南両面には鉄扉窓をつけず矢狭間だけとし、一層と二層には中央の張り出しに切妻破風を設けるなど、江戸時代後期の天守としては古風な佇まいをみせている。天守内部は弘前城史料館となり、藩政時代の歴史資料が展示されている。
 本丸跡には御宝蔵跡、御金蔵跡や未申櫓跡、戌亥櫓跡などが残り、本丸跡から眺める岩木山の山容は実に美しく、津軽富士と呼ばれる名に恥じない。
 西濠沿いの「桜のトンネル」本丸跡北側の鷹丘橋を渡ると北の郭跡。この郭は本丸に次ぐ重要な郭で、子(ね)の櫓跡・籾蔵跡・館神(たてがみ)跡などがあるが、なかでも館神は太閤秀吉の木造を御神体として安置していたところで、藩主などごく限られた人だけが出入りできる珍しい一角であった。館神跡から眺める内濠と石垣、そして天守の姿も美しい。
 築城当時の縄張りをほぼ完全な形でとどめている弘前城をくまなく見学するには2時間以上を要する。城内にはソメイヨシノや枝垂桜、八重桜など約2600本余りの桜が植えられ、桜の名所として全国的に有名。雪化粧した冬の弘前城の風情も捨てがたい。
周辺案内  長勝寺三門(重要文化財)弘前は「みちのくの古都」と呼ばれるだけあって実に多くの寺院がある。なかでも長勝寺と最勝院には是非詣でたい。
 長勝寺は津軽家の祖である大浦氏の菩提寺で、津軽藩二代藩主信枚が弘前城築城とともに現在地に移したもの。三門(国の重要文化財)をくぐると正面に本堂(国の重要文化財)が最勝院五重塔(重要文化財)建ち、その奥に御影堂がある。御影堂の中には藩祖津軽為信の木像を安置した厨子があるが、為信の像はいかにも戦国時代を生き抜いた武将らしい精悍な顔つきである。本堂奥の杉木立の中に五棟の霊廟がほぼ一線に建ち並ぶ。為信の正室や二代信枚などの霊廟で、独特の雰囲気をかもし出している。
 最勝院にはみちのくでは珍しい華麗な五重塔(国の重要文化財)が建ち、津軽統一の過程で戦死した人々の供養塔として三代藩主津軽信義が着工、四代藩主信政によって完成したものという。
 弘前城北門を出たところに国の重要文化青森銀行記念館(重要文化財)財である石場家住宅がある。石場家は藁工品や荒物を扱っていた商家。江戸時代後期の建築だが、その規模は大きく豪壮な構えで、座敷部分も優れ、津軽地方の数少ない商家の遺構として貴重なもの。
 追手門近くには青森銀行記念館が建っている。青森銀行の母体となった旧第五十九銀行本店として明治37年に建築された。左右対称で調和よく、防火のために様々な細かい工夫が凝らされた洋風建築で、国の重要文化財に指定されている。

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