越後村上より 5万石→4万石 | |
間部詮房は甲府時代の後の六代将軍の家宣に、父の代から申楽師として仕え、信を得た。
家宣の将軍就任に伴い側用人となり、特に幼少の七代将軍家継時代にあっては、天下に恐れるもののない幕政の中心人物となった。
吉宗が将軍となるにあたって、失脚し、上野高崎から、越後村上へ転封。間部詮言に継いで、この越前鯖江に移ってくる。
鯖江は、間部氏入封までは全くの一介の漁村で、若狭小浜藩領や越前福井藩領が入り組み、陣屋や、家臣の屋敷の設営地の選定もままならない状況であった。とりあえず移った家臣は近郷の民家に分宿するありさまであった。
小浜藩領と領地交換をして、ようやく陣屋、屋敷の設営に着手できた。こんな状況で、藩財政は当初から困窮を極めた。
特に間部詮勝が幕閣に入って活躍すると、それに伴う出費も莫大となった。西丸老中となった時、将軍家慶から、築城を許され、5千両を賜るが、鯖江城築城は実現に至らなかった。
さらに詮勝は井伊直弼首班の幕閣で老中となるが、桜田門外の変の後、安政の大獄の責任をとらされ、1万石の減封を受け、4万石となる。