織田信長の子孫は三法師織田秀信が関ヶ原西軍について絶えたあとは、信長二男の信雄の子たちが結果的に嫡流となる。
大名家として残った織田家は、信雄の流れが、この小幡と、丹波柏原に。信長の弟、有楽斎織田長益の流れが大和芝村、大和柳本。都合4家が大名家として存続する。
なかでも小幡の織田家は嫡流として、小藩ながら国主格を与えられていたが、のち「山県大弐事件」の関わりを咎められ、家格の特別待遇を剥奪され、出羽高畠(のち天童へ移転)へ転封となる。
山県大弐は過激な尊皇論を著わし、これと小幡織田家の家老との親交があったことを咎められたものである。
上州小幡は、城下町の雰囲気を残した町である。
2万石 | |
織田信雄の四男 | |||
織田信良の子 | |||
大和松山藩主織田高長の四男 | |||
織田信久の三男 | |||
織田信就の四男 | |||
織田信就の七男 | |||
織田対馬守信栄の四男 |
上野上里見より 2万石 | |
松平(奥平)忠暁の子 | |||
松平(奥平)忠恒の子 | |||
松平(奥平)忠福の嫡孫 忠房の子 | |||
松平(奥平)忠恵の長男 |