将軍を排出した藩。
家康の関東入りにあたって、徳川四天王の一人榊原康政が配せられる。榊原家は陸奥白河へ。
遠江浜松より、松平(大給)家が入り、下総佐倉へ。
四代将軍家綱の弟、徳川綱吉が15万石で入るが、形式的なもので、藩主としての綱吉は30年の治政の間に日光での家康五十回忌法要の帰途、館林城に四泊しただけで、譜代の家臣もない綱吉家は館林にはわずか22名の家臣しかいなかったと言われる。綱吉が将軍になった後、一時的に子の徳松に譲るが、早世してしまい、幕府領となる。
甲府宰相徳川綱豊の弟、松平(越智)清武が召し出され、館林に2万4千石、後5万4千石となる。松平(越智)家は陸奥棚倉へ転封。
陸奥棚倉より太田家が入り、遠江掛川へ。
陸奥棚倉より松平(越智)家が復帰し、石見浜田へ。
陸奥棚倉より井上正春が入り、遠江浜松へ。
出羽山形より秋元家が入り、2代在封して明治に至る。
10万石 | |
榊原長政の二男 | |||
榊原康政の三男 | |||
一代限り松平姓 |
榊原康政の長男忠政は、康政の母方の祖父大須賀康高を継いで、遠江横須賀藩主大須賀忠政となっていたがその長男大須賀忠次が康勝に継嗣がなく、榊原家の絶えることを心配した家康の命によって榊原家を継ぐ。康勝の甥である。 |
遠江浜松より 6万石 | |
松平(大給)家乗の長男 | |||
松平(大給)乗寿の長男 |
新知 15万石 | |
徳川家光の五男 | |||
徳川綱吉の長男 |
新知 2万4千石→4万4千石 | |
甲府宰相徳川綱豊(後の将軍家宣)の二男 | |||
美濃高須藩主松平(尾張)義行の二男 | |||
常陸府中藩主松平(水戸)頼明の二男 |
陸奥棚倉より 5万石 | |
太田資直の長男 | |||
太田資晴の長男 |
陸奥棚倉より 5万4千石 | |
常陸府中藩主松平(水戸)頼明の二男 | |||
松平(越智)武元の四男 | |||
松平(越智)武寛の長男 |
陸奥棚倉より 6万石 | |
井上正甫の長男 |
出羽山形より 6万石 | |
周防徳山藩主毛利広鎮の八男 | |||
遠江掛川藩主太田資始の五男 |