35万7千石 |
鍋島直茂は西九州を席巻した戦国大名龍造寺家の家老にして参謀であった。直茂は龍造寺家の衰退によって、その領地を「継承」し、秀吉、家康にそれぞれ所領を安堵される。
この龍造寺−鍋島の表面的には「禅譲」とされる下克上は、佐賀藩政にも尾を引くことになる。
直茂の子、勝茂は関ヶ原時には上杉北伐参加途上、三成挙兵によって進路を阻まれ止む無く西軍につくが、謝罪して許され、所領安堵される。
佐賀領35万7千石には鍋島分家の小城、鹿島、蓮池の3支藩、鍋島庶流の「御親類」白石、川久保、村田、久保田の4家、龍造寺一門の「御親類同格」多久、武雄、諫早、須古の4家の自治領を内分として含んでいる。
3支藩は石高は佐賀藩の内分だが、幕府の直大名としての資格を得ている。
佐賀藩の成立期の支藩や龍造寺一門との葛藤の雰囲気を知るには、小説なので脚色された面もあるが、隆慶一郎氏の「死ぬことと見つけたり」をご一読いただくのが、一番良い。絶筆なので未完だが。
武士、庶民を問わず、他領への移住、他領からの移住を禁じた鎖国の中の鎖国の体制や、藩内に中世的な自治領地方知行制を多く残した点などの保守性と、長崎に隣接し、長崎警備を福岡藩と交代で隔年受け持ち、長崎を窓とした開明性進取性を併せ持った藩風であった。
十代の鍋島直正(閑叟)は開明君主として有名。西洋式アームストロング砲の製造や蒸気船の製造を行った。
徳川幕府の藩主のカウントとしては勝茂を初代とした方がいいかもしれない。
鍋島直茂長男 | |||
鍋島勝茂四男 | |||
鍋島光茂長男 | |||
鍋島光茂二男 | |||
鍋島光茂十五男 | |||
鍋島宗茂長男 | |||
鍋島宗茂九男 | |||
鍋島宗茂十男 | |||
鍋島治茂長男 | |||
鍋島斉直十七男 | |||
鍋島直正二男 |